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2006年11月24日

この国はどうなってしまったのか

 愛知県岡崎市でホームレスの女性が殺害される事件が起きた。
 最も弱い人たちを襲うという卑劣な行動に怒りを覚えるのは私だけではないだろう。以前に同様な事件で犯人のひとりが「ホームレスは社会の屑だからきれいにしただけ・・・、悪いことはしていない」的な発言をしたのを聞いて愕然とした思いがある。
 ホームレスの人たちに誰ひとりとして好き好んでホームレスになった人はいない。様々な理由から現在の社会システムから離れざるをえなかった人たちである。私事だが、学生時代に大阪のあいりん地区で写真を撮っていたことがあった。「どや」と呼ばれる簡易宿泊施設に寝泊まりし、昼間は地下鉄工事や港湾労働に出掛け、夜な夜な取材をしながらあいりん地区に住む人たちの写真を撮り続けた。そこに流れてくる人たちの多くはいい人たちである。生活は荒み、人を信じる心を失いかけ、今を生きることを諦めかけている人たちだが、心の奥底には、人を信じ過ぎるお人好しな人間らしさを残し、ひたすら隠している。そして、社会に怯えている人たちだった。
 そこへ流れてくる人たちの理由の多くはお金のトラブルである。消費者金融からの多重債務、事業の失敗そして他人の保証人。そして彼らが一様に気を揉むのは、残してきた家族のことである。
 私もいつ同じ立場になるかわからない。失敗した人たち。そこに手を差し伸べることのない社会・・・・

 勝ち組、負け組と簡単にマスコミは、口にするが、本当に墜ちていく人のことを考えているのか疑問である。誰かが勝てば負ける人がいる。
 日本の剣道、柔道、相撲といった武道は、勝って喜びを過度に表現することを禁じている。それは、負けた者への労りである。強い者は、弱者への心配りも必要であり、いくら強くとも人格が伴わななければ、真の強者として評価されないのである。
「お金を儲けて悪いですか?」といった経営者がいた。彼に弱者の気持ちを理解できる心があればそんな言葉は口を吐かなかったであろう。しかし、心の構造がそうなってしまったのは彼だけではない。
今、この国では、そうした心を持つ人間が数多くいる。そうした大人をみて育つ子供たちの心が、どう育つか、火を見るより明らかである。
 弱い人がいるから強い人が勝てるのである。誰かが勝てば、誰かがどこかで負けているのだ。負けた人への心遣いの無い勝者は、いずれ負ける。いや、誰しもいずれ負けるのだ。人生とはそうしたものだ。
 勝つための教育ばかりが先行し、勝ったときの、負けたときのための処世、こうした視点がかけているような気がする。これは学校だけの責任ではない。企業も、家庭も、一人ひとりの大人も勝つことに必死になり弱者を忘れている。いや恐れている。だから自分より弱いもの劣るものを軽蔑するし、強いものを妬む。そうした中で、今の自分の立場に戦々恐々としているから心が休まる訳がない。
 正義を振りかざす気はないが、私たち大人が作った社会のシステムが歪みをきたしている。